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スターウォーズ“ジェダイの復讐”のポスターを手掛けた日本人イラストレーターサノ・カズヒコ「モーツァルト・アンド・エンジェル」
価格:147,000円
© Kazuhiko Sano※画像をクリックすると拡大します。
「モーツァルト・アンド・エンジェル」ジクレーイメージサイズ 61.0×45.7cmフレームサイズ 約84.0×69.0cm (イメージサイズ+タテヨコ各約23cm)※外寸は額装により数cmの誤差がある場合もございます。
下記の4つのタイプからお好きな額をお選びください。
ダークブラウン、ボルドー、ダークグリーン、ダークネイビーの4色額の幅 約4cm、高さ 約2cm ※額と絵柄の間にオフホワイトのマットが入ります。
☆オススメは「ダークネイビー」です☆※こちらの作品はご注文後に新しく額装するため、お届けまで2〜3週間のお時間をいただきます。
※画面上の色はブラウザや設定により、色の見え方が実際の商品と異なることがございますのでご了承くださいませ。
サノ・カズヒコアメリカで最も成功した日本人イラストレーター。
全米のトップ・イラストレーターに15年連続して選ばれているという、アメリカでは押しも押されもしないいわば大御所の存在です。
1975年単身渡米、サンフランシスコのアカデミー・オブ・アート・カレッジで学士、修士号を取得。
以来着実にキャリアを積みサンフランシスコはもちろん、ロサンゼルスやニューヨークなど各地の展覧会の常連。
広告の仕事でも彼のクライアントにはABC放送、AT&T、IBM、ユナイテッド航空など、超一流企業の名が並ぶ、まさにアメリカで最も成功したイラストレーターのひとりなのです。
83年の映画『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』のポスターは、おそらく誰もが何度も目にしているはずですが、あのレイア姫やハン・ソロを描いたのは彼だと聞いて、誰もが驚くのではないでしょうか?そして幕張メッセで開催された「世界恐竜博」のポスター。
この作品の依頼を受けた時は歴史学者のもとに訪れ、描写したい時代の植物・動物、そして環境を学び、科学的事実を学ぶことから始めたといいます。
このように、作品のベースとなるリサーチを徹底的い行うことにより、イメージが拡がり、ストーリーを考え、奥行きのある一枚の作品に命が宿るのです。
1952年 東京都港区に生まれる。
1971年 東京教育大学付属高校(現在の筑波大付属高校)を卒業後、デッサン、油絵を勉強する。
1975年 米国カリフォルニア州サンフランシスコのアカデミー・オブ・アートカレッジに入学、イラストレーションを学ぶ。
1977年 同校の奨学金コンテストで一位になり、メリット・スカラーシップを受け、同年、学士号を取得する。
また、この年、永住権申請に必要なスポンサーを見つけ、1978年、グリーン・カードの申請を開始、少しずつ仕事を始め、アカデミーで大学院のコースを取る。
サンフランシスコにてグループ展。
1981年 修士号を取得し、またグリーン・カードも獲得。
フリーランスのイラストレーターとして出発する。
サンフランシスコにてグループ展。
1983年 スター・ウォーズ“ジェタイの復讐”を手懸ける。
また、この年 、ニューヨークのイラストレーター協会に作品が初めて入選。
この年よりアカデミー・オブ・アート・カレッジの講師を務める。
1986年 サンフランシスコの市バスに同市の歴史の絵を描く。
サンフランシスコにてグループ展。
1988年 映画ポスター“ガラスの動物園”で、ハリウッド・リポーター誌主催Key Art賞 受賞。
1990年 “ダイアグノスティック・ウィザードリイ”(ロサンジェルス・タイムス)でPrint誌主催リージョナル賞 受賞。
“パイオニアズ”(ロサンジェルス・タイムス)でGraphic Design誌主催USA・DESl賞 受賞。
1991年 サンフランシスコ・イラストレーター協会から“レリック”でゴールド・メダル賞 受賞。
サンフランシスコにてグループ展。
1992年 新潮社の“スカーレット”の表紙を描く。
映画ポスター“At Play in the Fields of the Lord”でArt Direction誌主催 Creativity賞 受賞。
東京にて偉大なるコマーシャルアート展。
1994年 ロサンジェルス・イラストレーター協会からパトリック・ネイグル賞(最優秀作家賞)受賞。
1996年 ニューヨーク・イラストレーター協会にて個展。
“スター・ウォーズ・トリロジー”のプロモーションの仕事を手懸ける。
1997年 アメリカ郵政省の記念切手プロジェクト「セレブレート・ザ・センチュリー」に着手。
1998年 ナショナル・ジオグラフィック誌の“デボン紀”の仕事に着手。
1999年 ナショナル・ジオグラフィックの“OH−62”復元のチームのメンバーに選ばれるイラストレーター協会から第42回アニュアル・エキシビションの審査員を任される。
ミル・バレー市のアートコミッティー(美術委員会)のメンバーになる。
アメリカの“1970年代”の切手が発行される。
ナショナル・ジオグラフィック誌に描いた“デボン紀の魚と両生類”がアート・オブ・ナショナル・ジオグラフィック/センチュリー・オブ・イラストレーションに選ばれNational Geographic Societyより出版される。
2000年 “アート・オブ・ナショナル・ジオグラフィック/センチュリー・オブ・イラストレーション”展“プッシング・ザ・エンヴェロープ/アメリカ切手展”に作品が選ばれる。
日本での初来日個展を開催。
初のジクレー作品をガレリア・プロバより発表。